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熟練杜氏の経験をDX(デジタルトランスフォーメーション)する方法

1.はじめに

デジタルトランスフォーメーション(DX)という概念は、2004年のエリック・ストルターマン教授により提唱された概念で、「デジタルテクノロジーがヒトの生活のあらゆる面に引き起こす影響や変化」と定義し1)、従来の情報システムの延長ではなく、我々の生活における美的体験を向上させ、継続的に変容させるものとしている。我が国の第6期科学技術基本計画においても、新たな研究システムの構築の中で、DXの推進とより付加価値の高い研究成果の創出が掲げられている。

一方で清酒製造では、良い清酒の醸成には、清酒製造の責任者である杜氏の長年の経験と勘が必須であると考えられており、DX化とは程遠い領域のように思える。しかしながら、清酒製造ほどDXに適しており、挑戦しがいのある領域だと著者は考えている。そこで本解説では、メタボローム解析技術による清酒の品質および製造プロセスのデジタル化とデジタルデータの解析例について紹介したい。

清酒製造に杜氏の勘と経験が必要な理由

清酒の製造や販売の現場では、品質評価法として官能評価「きき酒」が頻繁に行われる。図1は、コロナ禍以前の2019年に開催された全国新酒鑑評会での製造技術研究会の1シーンをお示ししている。製造技術研究会では多くの製造技術者が官能評価を行い、意見交換する様子がうかがえる。このように、官能評価は酒類や食品清酒の業界で頻繁に行われ、重要かつ必須の評価基準となっている。技術的な官能評価用語は標準化されているものの、標準化が難しいものも多く、その評価は個々人に依存することとなる。官能評価では、ユーザーでもあるヒトの感覚での評価という最大の利点があるものの、情報が個人の中にしか蓄積せず、科学的な解析ができないという大きなブラックボックスが生じることとなる。

図1 全国新酒鑑評会 製造技術研究会の様子(2019年)

図1 全国新酒鑑評会 製造技術研究会の様子(2019年)  *独立行政法人酒類総合研究所HP より

清酒の風味には、使用する酒米の品種や精米歩合、製麹方法(米麹の造り方)、酵母の菌株、もろみの温度経過、清酒を搾る方法やその後の管理方法など、様々な要因が複雑に絡み合い、影響し合う。これら醸造工程と清酒品質との関係は、一部分析等はあるものの多くが杜氏の感覚の中にしか情報が存在しない。よって、新しい清酒の開発や品質改善は試行錯誤によるところとなる。清酒醸造の世界には、「百試千改(100回試し1000回改める)」という言葉があるが、まさにこの事を示している2)

実際に清酒の研究開発の歴史を振り返るとこのことがよくわかる。カプロン酸エチルという青リンゴ様の香りが存在する。カプロン酸エチルは1966年に発見されるが3)、清酒中での生成要因が解明されたのは、20年後の1986年である4)。さらにカプロン酸エチルを高生産する酵母の開発に5年(1991年)5)、広範囲に利用されるようになったのは、オフフレーバーが少ない「きょうかい酵母清酒用1801号」が開発された2006年6)と香りの成分が発見されてから40年もの月日を必要としている。また、酒米の王様といわれる山田錦は、1923年に山田穂(母方)、短桿渡舟(父方)に交配されてから100年を経ているが、いまだに山田錦を超えるとされる酒米は出てきていない7)。このように、官能評価が重要な清酒の研究開発には非常に長い年月を要することとなる。

醸造酒メタボライト分析法の開発

清酒を科学的に考えると、多様な代謝物が溶け込んだ液体で、エタノールとH2Oで95%以上を占めており、その他の成分は3~4%程度を中心に様々な濃度で含まれている。我々が研究を始めた当初は、清酒中に含まれる成分として、300程度が報告されていた8)。これら個々の成分は微量であるものの、清酒の風味はこれらの成分の微妙な割合の違いにより形成されると言っても過言ではない。しかし、メタボロミクス技術が出現するまでは、一つの清酒に含まれる成分を網羅的に調べるためには年単位の時間が必要であった。

しかしながら、精密質量分析機器を利用したメタボローム分析の手法が開発されると、大きく事情が変わってきた9)。メタボローム分析に用いられる精密質量分析機器では、たとえ複数の成分が同時に溶出した場合でも、1万以上の分解能で精密に解像して検出することができる。そのために、網羅性が非常に向上し、代謝物の混合物を一度に解析できるようになってきた。これらのメタボローム解析技術については、すでに様々な本が出版され、総説も数多くあるのでそちらを参照いただきたい10)

清酒はメタボロームの塊であり、メタボロミクス技術と非常に相性が良い。我々のグループでは、UPLC-QTOF-MSを用い、様々な酒類の分析に対応可能な「醸造酒メタボライト分析法」の開発を行ってきた11)。本法の開発にあたっては、7種類のカラムについて、様々な酒類中の成分がバランスよく分離・溶出されるカラムを選抜するとともに、溶出液の流速や濃度勾配などを検討し、代謝物が十分に分離されつつも、分析時間が短くなるように検討を行った。本法により、現在までに339種類の成分を約30分で検出することができる11)。また醸造酒メタボライト分析法は酒類だけでなく、様々な飲料にも適応可能となっている。

図2 UPLC-QTOF(精密質量分析)による醸造酒メタボライト分析法の開発

図2 UPLC-QTOF(精密質量分析)による醸造酒メタボライト分析法の開発

日本酒醸造ビッグデータの構築

先に述べたように、清酒の品質には原料米の種類、麹菌や酵母などの微生物、製造方法など様々なパラメータが複雑に関係していると考えられている。そこで、2種類の酒米、40~70%の精米歩合、2種類の酵母を用いてラボレベルの仕込みを実施し、生成された清酒のメタボローム分析を行った。その結果、各条件で影響を受ける清酒メタボライト由来のピークが明らかになるとともに、これらのピークのほとんどは複数の醸造パラメータの影響を受けることが明らかとなった11)。さらに、各条件の影響が、どの程度各成分のピーク強度に影響を及ぼすのかを明確に表すことができることが明らかとなった。さらに、UPLC-QTOFMSを用いた方法では、溶出時間に加えて、化学組成式を予測可能な高精度の質量とダイナミックレンジの広い検出強度により記録できる11-13)。そのため、清酒中に新たな成分が含まれることが報告された場合、その標準物質の溶出時間と精密質量を測定することにより、これまでに蓄積されたデータを解析することで、新たに醸造試験を行うことなく短期間に解析可能となった。

つまり、既知・未知のものを含めて、各原料米品種や製造条件の影響をメタボロームデータとして記録することができるようになった。言い換えると、酒類はメタボロームそのものであり、原料や醸造微生物などの様々な醸造パラメータの影響を、醸造酒メタボライト分析法によりデジタルデータ化できたということである。これまで勘と経験として蓄積されていた杜氏の暗黙知が、初めてデジタルデータとして網羅性高く記録することができるようになったと言える。まさに、日本酒醸造ビッグデータとして、広範に記録・保存する ことが可能になってきたということが言える。

図3 日本酒醸造ビッグデータの構築

図3 日本酒醸造ビッグデータの構築

日本酒醸造ビッグデータのアプリケーション

日本酒の製造プロセスの各種パラメータと清酒メタボロームとの関係が未同定成分も含めて記述できるようになったということは、これまで試行錯誤をベースとした醸造技術の開発に革命的な変化を起こすものと考えられる。我々の研究グループでは、本方法および日本酒醸造ビッグデータを用いた様々な技術開発や研究を行っているが、その中から1gの玄米からの醸造特性予測15)について紹介したい。

長年経験を積んだ杜氏でも「酒造りは毎年1年生」という言葉が出てくる。これは酒造りの条件が毎年変動し、どのような清酒になるか予測がつかないことから出てくる言葉で、特に原料米の特性が変動することによるところが多い14)。原料米については、製品に至るまでのプロセスが長く、麹菌や酵母など様々な条件が影響を与えるため清酒の品質との関係について不明な点が最も多く、故に原料米から清酒の品質予測をすることが難しかった。

清酒造りで利用される白米中にはデンプンが最も多く含まれ、さらに、タンパク質や繊維分など多様な成分が含まれ、その多くは高分子化合物で、原料米の特性を担うと考えられる11)。これらの高分子化合物は、原料米特性は自身の遺伝的影響はもとより、施肥、生育や登熟期の気象条件など様々な影響を受けると思われる。高分子化合物はグルコースやアミノ酸など低分子の化合物から合成される。これらの化合物は、登熟の過程で生産され、高分子化するとともに、一部はそのまま残留したり、他の物質へ化学変化したりすることもあると予想される。つまり、原料米中の低分子化合物は、成長や登熟中の情報が反映されているとともに、醸造特性についての情報を内包していると予測した。そこで、玄米中の低分子化合物を抽出し、醸造酒メタボライト分析法により解析を行い、メタボライトピークプロファイルを得た。さらに本プロファイルを説明変数とし、原料米の分析値や一定条件で製成した清酒のアルコール度数、日本酒度、酸度、アミノ酸、一般香気成分などを目的変数として、予測モデルの作成を行った。その結果、36項目にもわたる特性やカプロン酸エチルなどの清酒中の香気成分までも精度よく予測することが可能であった15)

つまり、1g程度の玄米があれば、実際に醸造を行う酒造期前に、その年の原料米による酵素活性や発酵の進捗、製成酒のアルコール度数やアミノ酸度、さらには香気成分の特性までを予測することができる。これにより、いち早くより目的の清酒とするための調整などを行うことができるようになるものと考えられる。

図4 1g の玄米からの清酒成分などの醸造特性予測

図4 1g の玄米からの清酒成分などの醸造特性予測

我々の研究室では醸造酒メタボライト分析法と日本酒醸造ビッグデータを使用した様々な取り組みを進めている。現在は、まだ限られた条件での醸造パラメータと清酒成分についての関係を蓄積しているに過ぎないが、短期間に非常に多くの研究成果が生まれている。これらの手法は代謝物が重要な商品の品質を担う酒類だけではなく、様々な発酵食品に対しても応用可能であるものと思われる。また、詳細は省くが、ヒトの味覚と清酒メタボライトプロファイルとの関係等についても解析可能である8)。今後とも情報を蓄積してゆくとともに、統合的なデータベースの構築法や新たな情報解析手法などの開発を進めてゆく必要がある。