ドーピング検査
1. はじめに
近年は病気になってから治療する医療から、生活習慣病や介護の予防を通じて健康寿命の延伸や医療費抑制を期待する予防医療の重要性が増している。最近のジョギング・ランニングブームのように、スポーツは私たちの心身の健康の保持増進にも不可欠となっている。2019年のラグビーワールドカップでは、アスリートが定められたルールに従い、フェアプレー精神、優れたチームワーク、最善を尽くす姿から私たちは多くの感動や勇気を得ることができた。しかし、こうしたスポーツの価値に反する競技力向上を意図したアスリートによる薬物不正使用、いわゆるドーピングは、近年では一般青少年の憧れの存在でもあるトップアスリートにまで広がりを見せ、いまやスポーツ界の問題だけではない公衆衛生上の大きな社会問題のひとつとなっている。このようなドーピングを防止する活動はアンチ・ドーピングと呼ばれ、その活動目標は、スポーツ固有の価値を保護することにある。現在、アンチ・ドーピング活動は世界アンチ・ドーピング機構(WADA)を中心に展開されている。我が国では2018 年 10 月に「スポーツにおけるドーピング防止活動の推進に関する法律」が施行され、アスリートによる禁止薬物の使用、所有、取り引き、コーチ等のアスリート支援者によるアスリートへのドーピングほう助は罰則規定がないものの違法行為とされている。
WADA はドーピング禁止物質および禁止方法を、競技力向上、健康上の危険性、スポーツ精神に反するなどの要件により禁止リストに収載し、少なくとも毎年 1 回更新している 1)。アスリートの尿試料もしくは血液試料からドーピング禁止物質を検出するいわゆるドーピング検査における検体分析はアンチ・ドーピング活動の中で、重要な位置を占めている。ドーピング検査における検体分析は世界30 カ所(2020 年5月現在)のWADA 認定試験所で実施される。世界各国の認定試験所は大学もしくは国家機関を母体として運営されているが、我が国においては筆者の所属する民間企業である株式会社LSIメディエンスが唯一の分析機関であり、1985 年以来、国内外のドーピング検査における検体分析を担っている。
WADA の認定を受けるためには使用する認証標準物質、分析法、校正方法を ISO/IEC17025 の試験所認定範囲内に収める必要がある。さらには、WADA の各規程に遵守し、定期的な精度管理プログラムにパスしなければWADA 認定試験所の資格は一時停止もしくは剥奪される。2017 年のWADA の統計2)によれば全世界で 245,232 検体が分析され、そのうち1,459 件(うち我が国は5 件)がドーピング違反とされた。競技会時、もしくはトレーニング中に採取された尿検体もしくは血液検体は、WADA 認定試験所に搬入された後、低分子から高分子薬物など多岐にわたる物質を分析するために、表1に示したように液体ならびにガスクロマトグラフィー質量分析、イムノアッセイ、フローサイトメトリー、電気泳動、リアルタイムPCR といった多岐にわたる分析手法が用いられ、さまざまな分析機器が活躍している3)。
禁止薬物および禁止方法 | 検査試料 | 分析法 |
---|---|---|
S0. 無承認薬 S1. タンパク同化薬 S3. β 2 刺激薬 |
尿 | 網羅分析:ガスクロマトグラフィー高分解能質量分析 (GC-Oribitrap MS) 尿ターゲット分析:ガスクロマトグラフィートリプル四重極質量分析 (GC-MS/MS) |
S0. 無承認薬 S1. タンパク同化薬 S3. β 2 刺激薬 S4. ホルモン調節薬および代謝調節薬 S5. 利尿薬および隠蔽薬 S6. 興奮薬 S7. 麻薬 S8. カンナビノイド S9. 糖質コルチコイド P1. β遮断薬 |
尿 | 網羅分析:液体クロマトグラフィー高分解能質量分析 (LC-Oribitrap MS) ターゲット分析:液体クロマトグラフィートリプル四重極質量分析 (LC-MS/MS) |
S1. タンパク同化薬 ( 外因的に投与した場合の内因性蛋白同化薬 ) | 尿 | ガスクロマトグラフィー安定同位体比質量分析(GC-IRMS) |
S2. 成長ホルモン分泌刺激薬 | 尿 | マイクロフロー LC-MS/MS |
S2. ゴナドトロピン (hCG) | 尿 | 酵素免疫法(EIA) |
S2. 成長ホルモン | 血清 | EIA、ラジオイムノアッセイ(IRMA)、LC-MS/MS |
S2. エリスロポエチン (EPO) | Sarcosyl-PAGE 法とウエスタンブロッティング(化学発光検出)、LC-MS/MS | |
S4. ホルモン調節薬および代謝調節薬 (インスリン) | 尿、血漿、血清 | ナノフロー LC-Oribitrap MS |
M1. 血液および血液成分の操作 (輸血) | 全血 | フローサイトメトリー |
M2. 化学的および物理的操作 | 尿、全血 | リアルタイム PCR(個人識別) |
M3. 遺伝子および細胞ドーピング | 全血 | リアルタイム PCR |
2. アンチ・ドーピングを支える分析機器の進歩
2-1.分析精度を向上させる高分解能質量分析計
ドーピング検査における検出物質は筋肉増強効果を期待したタンパク同化ステロイドホルモンが最も多い。その検出にはドーピング検査においては主としてガスクロマトグラフシングル四重極型質量分析計により分析が行われてきた。その後、四重極、コリジョンセルおよび四重極を直列に配置したトリプル四重極型質量分析計が開発され、プリカーサイオンから得られるフラグメントイオン測定することにより、選択性、特異性、検出感度の非常に高い測定が可能となった。一方、四重極型質量分析では、質量分解能が低く夾雑物質の影響を受けるため、試料の前処理操作によるクリーンアップを必要とすることも少なくない。
近年、飛行時間型質量分析計やオービトラッブ質量分析計のように精密質量精度、質量分解能が著しく向上した分析機器が開発された。図1にはタンパク同化ステロイドホルモンの一つボルデノンの尿中代謝物(5 β -androst-1-en-17 β -ol-3-one)のプロダクトイオンマスクロマトグラムを示した。上段に示した低分解四重極型質量分析計による測定の場合、薬物服用のないブランク尿試料においても溶出位置近辺に夾雑ピークが観測される。一方、下段に示したように高分解能オービトラップ型質量分析計による測定の場合は夾雑ピークを限りなく抑えたクロマトグラムを得ることができる。
また、ドーピングする側は、検査法が開発されている薬物の分子構造を改変することで、質量分析によるターゲット分析を行うドーピング検査を回避することを狙ったデザイナードラッグを使用するようになった。四重極型質量分析でのターゲット分析で得られた分析データを遡及的に再解析しても過去に分析対象外だった薬物を検索することは不可能である。高分解能質量分析では精密質量情報を有するフルスキャンマススペクトルの同時取得が可能であり、数年後に過去のデータを再解析することを可能とし、ドーピング検査に大きな進歩をもたらしている。図2にナンドロロン代謝物(19-norandrosterone)をモデル化合物としてそのシミュレーションを示した。検査数年後に新たに発見された新規ステロイドの推定分子量から、± 5ppm でマスクロマトグラムを抽出し、そのマススペクトルから検出・同定が可能となる。
今後は、標準試料と比較しなくてもフルスキャンデータからAI人工知能などを用いて可能性のあるドーピング禁止物質もしくは代謝物を検索する解析技術も期待される。
一方、このような分析機器の精度向上に伴い、検体中の微量成分が検出可能になり、食肉、サプリメント、医薬品への微量のコンタミネーションが原因による意図せぬドーピング違反を問われるケースが増加する傾向にある。そのため、ドーピング違反を確定する前に、検査主催機関はアスリートへのヒアリングや事後調査も十分におこなう必要がある。
2-2.アスリートの負担を軽減する分析機器の進歩
分析計の高感度化はドーピング検査におけるアスリートの負担を軽減する効果をもたらしている。ドーピング検査では主に尿試料が分析に供されてきたが、採尿時に尿のすり替えなどを防止する目的で、ドーピング検査官の監視下での採尿が実施される。特に女性アスリートの精神的負担になることが指摘されてきた。また、スポーツ後は発汗により尿が出にくいことから、規定の採尿量を確保するための長時間の拘束によるアスリートのコンディショニング悪化も問題視されてきた。正中皮静脈からの採血によるドーピング検査も行われているが、採血には医療従事者の支援が必要なことから、採尿のように十分普及できていない。最近は、低侵襲かつ迅速な自己採血が可能であり、省保管スペースと輸送において利点のある乾燥血液スポット(Dried Blood Spot: DBS)を試料とするドーピング禁止物質の分析が試みられている。DBS は新生児スクリーニング検査や創薬の分野では古くから用いられてきているが、静脈採血と異なり毛細血管からの僅か数十μ L の微量採血となるため、分析の高感度化も課題であったため、ドーピング検査では実施されていなかった。また、DBS を試料とする場合、通常はスポットされた乾燥ろ紙を切り抜き、抽出、精製など煩雑な前処理工程を必要とするが、近年の分析計の高感度化と自動化によりスループットが大幅に向上している。図 3 に筆者らが推進している前処理操作なく、DBS カードをオートサンプラーにセットするだけでドーピング禁止興奮薬・麻薬 64 成分の測定を可能とする全自動オンライン液体クロマトグラフィー質量分析法を示した。今後、競技会検査において指先や上腕部からの数十μ L の採血でドーピング検査が可能となれば、アスリートへの負担の大幅な削減と分析コスト、分析所要時間の大幅な削減が期待できる。
2-3.新たなドーピング検査:生体パスポートとオミックス解析
上述のようなドーピング検査は、検体中に存在する禁止物質もしくは代謝物を検出することが目的である。血液ドーピングは、遺伝子組換えエリスロポエチン製剤(EPO)の使用や輸血のように、酸素運搬能力の向上を期待して、持久力系競技などで行われている。この場合、EPO 使用の直接検出法は表1に示したように電気泳動、ウエスタンブロッティングにより実施されるが、検査の目をかいくぐる微量投与(マイクロドージング)では感度上困難な場合がある。また、アスリート自身が自身の血液をあらかじめ貯血しておき、競技会直前に再輸血する手法の直接的な検出法は現時点では確立されていない。このように、分析機器の感度が向上しても「微量の禁止物質やもともと体内に存在するものの使用を検出する」手法だけでは完全なドーピング検査体制を維持するには限界もある。
近年、新しいドーピング検査方法として、アスリート生体パスポート(Athlete Biological Passport, ABP)が導入された。これは、アスリート個人の血液中のヘモグロビン量や赤血球数、尿中の内因性ステロイドホルモンの変化を経時的にモニタリングし、その変動からドーピング違反を摘発したり、さらなる追加検査立案の参考情報を得たりするシステムである4)。EPO を使用すると、網状赤血球割合(RET%)は高くなり、続いて赤血球数が上昇し、RET% は減少する。数値の「高い」「低い」には個人差があるので、各アスリートの複数回の測定値からその変動範囲を設定し、そこから逸脱することによってドーピングの痕跡を見出す。自己血輸血ドーピングの場合、輸血用に採血した時点では、赤血球数の減少に伴う低酸素状態により RET% が上昇し、再輸血時には赤血球数が上昇するため、輸血ドーピングの検知が可能になる。
現在は、他に内因性のテストステロン代謝物などの個人変動をプロファイリングすることによりテストステロン製剤によるドーピングの検出率は飛躍的に向上している。これらのABPデータは、筆者のWADA 認定分析機関を含め一部の認定分析機関内に設置されている Athlete Passport Management Unit(APMU) により解析される。高地トレーニングなどの低酸素状態、疾病、出血などによる変動も考慮して判断が必要となるため、このAPMU は、血液学や内分泌学専門の医師、さらにアンチ・ドーピングに関する高度な知識を持つ専門家(Expert)と管理スタッフから構成され、分析データは Anti- Doping Administration & Management System (ADAMS)と呼ばれるWADA の Web システムを介し、アスリートのプライバシーが守られた状態で共有される。このように、ABPはアンチドーピングプログラムにおいて有効なツールとなっている。
今後は、メタボローム、トランスクリプトームなどのオミックス解析をドーピング検査に取り入れることが期待される5)。禁止薬物の使用、輸血、遺伝子操作などを行うと血液中ではさまざまな変化が起きる。通常の状態や運動負荷時での血中の代謝物や small RNA などの量を調べ、EPO、成長ホルモンや自己血輸血、遺伝子ドーピングをした場合の変化を捉えることでドーピングの痕跡を捉える可能性がある。これまで、検査する側が後手になりがちなターゲット検査からのブレークスルーとなり、検査する側がドーピングする側に先行して網羅的にドーピング不正を監視できる可能性がある。
3.おわりに
分析機器の進歩はスポーツにおけるドーピングの防止に欠かせないものとなっており、クリーンなアスリートと健全なスポーツの発展を支えるうえで今後も期待される。一方、高分解質量分析のように得られるデータは膨大な情報量であり、筆者らもしばしばデータの解析に労力を割いているが、そのデータをいかに迅速に有効に解析するかがポイントとなる。オミックス解析などでは現在のABP と比較にならない膨大な情報量を扱うため、より高速なデータ解析システムの開発ものぞまれる。さらには、ドーピング違反を捉えるためには、分析データだけではなく、例えば、水泳アスリートのタイム記録などの競技成績のデータベースとリンクして、不自然な競技成績向上なども判断材料とすることも効果的と考えられる。こうしたビッグデータ解析のために、人工知能 AI をドーピング検査に取り入れる日もそう遠くはないと考えられる。
新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の世界的大流行により東京オリンピック・パラリンピック開催は2021年に延期となったが、オリンピック成功のひとつにはドーピングのないクリーンな大会であることがあげられる。こうした中、新たなドーピング検査法の開発、分析機器、データ解析システムの発展はますます重要性を増していくであろう。
参考文献
- 1) WAA. Prohibited list 2020.
- 2) WADA. 2017 Anti-Doping Rule Violations(ADRVs)Report.
- 3) 岡野雅人 , 池北紋子 . ぶんせき(Bunseki), 10, 2018, 434.
- 4) WADA. Athlete Biological Passport(ABP)Operating Guidelines.
- 5) Wang G et al. Next Generation "Omics" Approaches in the "Fight" against Blood Doping. Med Sport Sci. doi: 10.1159/000470919.